小林正樹監督『防人』
映画好きの皆さんなら、松永文庫から海峡を挟んだ下関が女優・田中絹代の生地であり、いとこの小林正樹監督とともに彼女が眠る墓所があることは既にご承知でしょう。記念館や映画祭など往時を懐かしむファンで毎年賑わう本州側ですが、ここ松永文庫が在る旧大連航路上屋という場所には、実はその小林正樹監督との大変な因縁がある事は意外に知られていません。
まるで監督の映画のエピソードの如き顛末を貴方はご存知でしたか?
それは現在から69年前、昭和19年7月の事でした。
25歳で松竹大船撮影所に入社、助監督として働いていた若き日の小林監督は、軍に応召されてからも厳しい軍務の傍ら脚本の執筆を続けていました。
映像化されていない幻の作品、題名を「防人」というこの脚本は、ソ満国境警備の任についた監督自身の体験から生まれ、後の代表作「人間の条件」へ連なるものとして今では知られていますが、ようやく完成したその脚本を携えて、貨物船で南方への移動途中、僅かな時間の上陸を許されたのが、まさに門司港のこの建物でした。外部との接触も出来ず自身の行く先も知れない刹那、小林監督は決断します。
この書お拾いの方は甚だ失礼ですが、
東京市大森区田園調布三ー七四
小林雄一宛に御送付して下さい
御送付願います
息子より
脚本の表紙を開き、こう書きつけました。さらに、
私はどこか南方に出動です
永久にあへないかも知れませんが
この脚本が残ったこと丈でも満足です
これがとどくかどうかも疑問ですが
運を天にまかせて送ります
皆様によろしく
門司港内にて
僅かな日記や手紙などと風呂敷包みにし十円札を貼り付けて、一縷の願いを込めて洗面所の隅に置き残した包みは、その後幸運にも父親の雄一さんの元に届いていました。復員後、それを知った小林監督でしたが結局送り主はわかりませんでした。
晩年、何とか礼がしたいものだと気にかけていた監督の意を汲んで、現在これらの資料を所蔵している梶山弘子さんは、数年前にまだ整備中だった当地・門司港を訪れています。
幸い存命だった当時上屋に駐在の上級憲兵のうちの一人と連絡がとれ、「そんなことがあったかもしれない…」という答えを電話越しに聞くことができたそうです。
小林監督や田中絹代の遺品整理研究と顕彰活動をされている梶山さんは、生前の監督自身とはスクリプターや監督補として関わり、さらに小林監督と師弟関係にある歌人・書家の会津八一との絆について、このエピソードの続きとも言える連載記事を2006年の新潟日報に発表され、ご自身が立ち上げた私設図書館「弘子文庫」などで活動されている方です。その梶山さんの手で遺品の中から「防人」原本が発見されたのが1998年、なのでこの話題が広く世に知られたのは比較的最近の事かもしれません。
そしてこの夏、この出来事に関わったすべての人々の想いと願いをのせて、不思議な縁で結ばれた一冊の脚本は、松永文庫による展示として、約70年の時を超えて、再びこの場所に戻って来たのです。私は先日読んだ人気の小説「十二国記」の一編を思い出してしまいましたが、現在では小説よりも数奇に思えるこの実際のエピソードも、世の中全てが行方を見失って途方に暮れたあの時代であればこそ、似たような経験をされた方もあるのでしょうか。
ガラスケースの中の「防人」は何も語らず、静かにあの時と同じ海峡の風を見つめているようです。
wriiten by おりおなえ